宙組公演「Paradise Prince」「ダンシング・フォー・ユー」東宝初日のメモ。
らんとむさんしか目に入っておりませんので、ご了承くだされ。
今更ながら、ロビーの売店に売っている「ぬれおかき」にハマっております。
美味すぎる!
「パラダイス・プリンス」。
なんじゃ、あのらんとむさん! きもちわるい!!(←ホメ言葉)
さまざまな登場人物のキャラ設定が、なかなかに冒険心に富んでいたように思います。まともなの、妹ちゃんだけじゃないの(笑)。
それにしてもなんだろうかあのらんとむさんは。オールバックで! ちょろりと垂れてる! しかもなんかバラ持ってる! …一応、立ち位置としては悪役なんですよね?幕開き、紹介役(司会?)やってたってことは、和解して、プロデューサーもしくはマネージャーとしてうまいことやれてたということなのでしょうか。まあ、細かいことはともかく、面白かったから満足です。さすがらんとむさん、裏切らない(笑)。
物語としては。
えーと、ちょっと、色んなところのセリフが重かったですね(笑)。そうなのよねー、夢だけでは食っていけないし、好きなことやって生活できる人なんて、ほんの一握りなのですよ。あまり、たからづかでは言って欲しくないけどね(笑)。そして最後はハッピーエンド。さすがたからづか。
でも、私は思うのですけど。
…あのマイアミなんとか(すいません忘れました)で出品したスチュアートの作品の、キャサリンの絵の部分。元のキャサリンが描いた絵は、キャサリン自身が破いてしまったのですよね?そして、そのあと、マイアミなんとかまで、スチュアートとキャサリンは会っていないはずです。ということは、スチュアートは記憶でそれを再現して、自分の作品の中に組み込んだということでしょうか。……それって、キャサリンは本当に嬉しかったのかなあ、と思ったのです。というより、物語の中のキャサリンは、嬉しくって幸せでハッピーハッピーとして描かれていましたけど、……自分がその立場に置かれたら、微妙な気分になるのではないかと思う……。というかむしろ、スチュアートのやったことは、やっちゃいけないことなのではないかと思うのですよ。まず、スチュアートと自分の才能の明らかな差を見せ付けられるのです。だって彼は、記憶だけでカンタンに再現できちゃったわけです。←まあこれを言うのは、自分の度量の狭さというか、人間の小ささをアピールしているような気もするので、大きな声では言いたくありませんけど、自分だったらそう思ってしまうのではないかと思う。そして、自分の作品、しかも「心の迷いを捨てて、自分が描きたいものを描いた!」(意訳)と、あんなに嬉しそうに言っていた作品なのですよ。すごく思い入れのある作品を、そういう仕打ち(ひどい言葉で申し訳ないが!)で返されるのって、どうなのでしょうか…。それとも、尊敬するスチュアート・メンフィールドとコラボ(?)できて嬉しい、光栄、って思うものなのでしょうか。確かにスチュアートは既に成功していて、キャサリンはまだ芸術家の卵だけど、芸術に関するプライドは、その時点の社会的地位とは別のところで、ちゃんと保持していて欲しかったなあ。正直、私はこの場面で、キャサリンの顔を見られませんでした…。もっと基本的なところで、公開前に作品の確認をしないプロデューサー(それはアンソニー)の仕事ぶりにも疑問を持ちましたけど(笑)
くどくどと語りましたが、セリフを半分だけ聞くようにしておけば(……)、非常に楽しい作品でした!色合いがポップでかわいくて、観ているだけでわくわくしましたよ。キャサリン登場時の格好が眼福でめろめろしました。ああー、たまりませんなあの脚(笑)。復帰、心からおめでとうございます。
とりあえず、例のキャラについてのコメントは割愛ということでよろしいでしょうか(笑)。
「ダンシング・フォー・ユー」。
B 先生ぽいんだけどぽくない感じで(?)楽しかった! というか滅茶苦茶楽しいです。やれば出来るんでない!どのあたりがB先生ぽくないのかと考えてみると、たぶん、主題歌の雰囲気がちょっと違うんですね。タイトル連呼という点では同じなんですけど(笑)。あとは、場面にメリハリがあったように思いました。眠い場面が1個もなかった!
↑私の場合、らんとむさん効果が絶大だからだという気もしなくもないですけど(笑)。すいません、客観的な感想とは言えません。基本的にらんとむさんピン撮りの場合ってことです。
そうなんです、らんとむさんがステキすぎるんです!彼はなんでキメポーズが瞬間的にブレるんだろうとおもって観察してみると、彼はビシッと決めるときに、光速(高速ではない、その上をゆくのです)でクイッってやるんですよ。だから頬のあたりとか唇のあたりとか(なんかやらしいわね)手先とかが一瞬ブレるんです。というかきらめくんです。ズバァーンドキューンとくるんですっ!あとは、カックン動作が何とも言えず面白いです(←?)。1人で誰にも邪魔されずに踊っているはずなのに、なんか背後からヒザとか首の後ろとかをカックンされているような絶妙な動きをしたり、あと首がもげそうな勢いでリズムをとったりして、私のハートを射抜くのです。というかヒクヒクするんです、つまりは笑っちゃいそうなのを必死でこらえるっつうか何というか何でこんなに面白いんだろうこの人
らんとむにくぎづけだぜ!!!
ええと、あと和音さんと北翔さんのデュエットがプロ級すぎて、その場面だけ別次元な感じがしました。タニちゃんの歌声は最早歌声ではなく何かの楽器のような気がします(歌詞が全くわからなモゴモゴ)しかしそんなタニちゃんが私は大好きです。
【2008.12.15追記】
とんちんかんライターたいやきが述べた、物語ヤマ場の「マイアミなんとかでスチュアートが出品した絵」の場面についての解釈について、補足です。
ここで私は、
>スチュアートは記憶でそれ(キャサリンの描いた絵)を再現して、自分の作品の中に組み込んだということでしょうか
と思ってしまったんですが(おのれの発言を引用するのって恥ずかしいわね)、設定は「キャサリンが引き裂いた絵を、スチュアートがケヴィン君(ナナホ君)に命じて回収させ、作品にした」ということらしいですね。どうも、ちゃんと「引き裂いた絵を貼り合わせた」ような演出になっているとか。あらイヤだ!全然気付かなかったわあ!
それをふまえて考えると、色々解釈もかわってくるわけでして…。キャサリンは、スチュアートのために自分の夢をあきらめたわけですから、スチュアートがコラボという形で復活させてくれたのはとても嬉しかった…のでしょう。
…… ううう、すいません、なんかスッキリしないのはたぶん、このあとのキャサリンの成功が、「つくられたもの」と印象付けられちゃっているのが原因なのかもしれません。アンソニーが「ヒット曲なんていつでもつくれるんだ!」…じゃなくてなんだっけ、「プロデュース次第でどうにでもなるんだ」というような内容の発言をしていましたけど、物語としてはそれが肯定されちゃっている気がするのですよね。たからづかとして、それはいいのかと…。キレイごとですけどもね。
これは非常にかたよった考え方かもしれませんが、「私の作品は私のもの」(私の人生は私のもの~♪ とは違いますが…)というスタンスで、自分は作品をつくると思うのです。つまり「これで完成!」というところまで自分でやりたい。なので、「これで完成!」とした、思い入れのあるものに対して他人(というと非常によそよそしい表現になってしまいますが!)が手を入れてしまったら、私だったら怒り狂うと思う…。いやいや、これは私の了見が狭いというやつかもしれません。失敗作だったり、キャサリンみたいに「もういいわ」と思ったものについては、生き返らせてくれたら嬉しいのかも、と思う。…でもそういう作品(自分が「これで完成!」とはしていなくて、その後自分ではない人に手を入れられた作品)に対して他人から好評価を受けて、嬉しいかなあ…。「自分の力が評価された」とは思えないのではないかな? ←ここが、スッキリしないというポイントなんです。キャサリンが嬉しかった、というのはわかるんだけど、絵で生きていこうという人がそんなんでいいのか?ちょっと甘いんでは?とか思っちゃうわけで。でも結末は売れっ子アーティスト。よってアンソニーの「プロデュース次第でどうにでもなる」がよぎってしまうわけです…。この場合、「アンソニーのプロデュース」自体は失敗しちゃっているわけですが(笑)。あえていうなら「スチュワートのプロデュース」の成功により、ということですかね。キャサリンの絵単体でも、成功する力はあったのかもしれないけど、物語からは、キャサリンの絵が人々を虜にするほど素晴らしいレベルだというのは伝わってこないのですよね…。お金持ちが絵を買うことで「評価された」としている展開が影響しているのでしょうか。
今ちょっと、(私が)マイナススパイラルに陥っているのかもしれません。すいません、想像力の限界です…よぼよぼ。
ともかく↑これは重箱のスミみたいなことでして、作品としてはとても楽しめたのですよ! たからづかでリアルなことを語られると(ex1: 仕事がないってつらいわ@エスペランサ)(ex2: ワークシェアリング!@ステラマリス)ちょっとガビーンって思っちゃうということです。たぶん、こんなに色々考えることを観客に求めるほどに深く練られた話ではないのだと思います(おっと暴言)、さらっと軽く楽しむべき作品なのですよね、おそらく。もう1回みたら、見逃していたことが色々わかって、そしてもっと色々見えなくなって(←?)楽しめる気がするのですが!